H28おたや祭り

公開日 2016年01月01日

最終更新日 2016年07月04日

おたや祭と山車の由来

豊受大神宮長和町の古町(旧長窪古町)に所在する古町豊受大神宮の例祭は、通称おたや祭として知られています。
その起源は江戸時代末の、文政十一年(1828)の文書が、現在のところ最も古い記録として残されていますが、お祭はこれ以前よりかなり古くから行われてきたと考えられます。
古町豊受大神宮では伊勢神宮にならって、20年ごとに遷座祭が行われ、例祭は毎年1月14日の夕方から15日の昼頃まで行われます。お客のある家庭は、この日を年始にし、その歳の出発とするのを慣わしとしています。
参詣の人々は上田、佐久方面からも訪れ、この2日間に4~5万人ほどの人出が予想されます。
おたや祭には、庶民の生活が安定し余裕が出てくると、お祭を盛んにするために山車が奉納されるようになり、旧家所蔵の天保六年(1835)の日誌に記載されています、「御田(旅)屋賑わし、かざり物数ヶ所美事也」との一文が、現在判っている最も古い山車の記録です。
山車は素朴な農民美術を伝承する貴重な伝統文化として、昭和38年に長野県無形民俗文化財選択に指定され、現在は区単位の5場所の保存会によって奉納されています。

 

平成28年の山車

猿飛(さるとび)()(すけ) 修行の場【上宿第1場】

H28第1場

 信州鳥居(とりい)(とうげ)(上田市)の(ふもと)に佐助という少年がいた。猿や鹿などを相手に毎日飛び回っていたが、十歳になった時、「世は戦国の時代だから腕しだいで出世できる。腕を磨くには武術にかぎる。」と武術の稽古(けいこ)を始めた。

 ある時、そんな様子を一人の白髪の老人が見ていた。その老人の名は戸沢(とざわ)(はく)雲斎(うんさい)忍術(にんじゅつ)の大名人と呼ばれた白雲斎は、自分の忍術を授けられる者を探し求め、ここに少年佐助を見出(みいだ)した。白雲斎は佐助の身軽な動きと武術への熱心な心がけに感じ、弟子にした。佐助は鳥居峠でこの奇態(きたい)な老人から毎日毎夜、一心不乱(いっしんふらん)に忍術・武術を教わった。その甲斐(かい)あって、わずか三年ばかりであっ晴れな腕前となった。白雲斎は忍術の極意(ごくい)を伝えた後、白雲と共に東の方に飛び去っていった。

 その後、鳥居峠に(しし)()りに来た真田幸村(信繁(のぶしげ))公と出会った佐助は、幸村公より猿飛佐助の名を与えられて仕え、真田十勇士の筆頭として、戦乱の世に大活躍した。

 なお、鳥居峠の近くの角間(かくま)渓谷(けいこく)(上田市)には、今も猿飛佐助が忍術の修行をしたと伝える岩がある。

 

真田幸村 猿飛佐助十勇士 大坂夏の陣の場【上中町第2場】

H28第2場  徳川家康の戦略で城の堀をすべて埋め尽くされ、難攻不落(なんこうふらく)の大坂城も裸同然の城となってしまった。大坂夏の陣で豊臣方は城を出ての戦いを余儀なくされ、慶長(けいちょう)二十年(1615)五月六日戦いの火蓋(ひぶた)が切って落とされた。

 豊臣方は、後藤(ごとう)(また)兵衛(べい)薄田(すすきだ)(かね)(すけ)らが討ち死にし、木村(きむら)重成(しげなり)も戦死して、そこへ遅れてやってきた真田隊が伊達一万の軍勢とぶつかり、これを撃破したうえで殿(しんがり)を見事に務め、平野の地蔵堂本陣から大坂城へと引き上げた。幸村は自軍が去れば必ずや家康は地蔵堂に本陣を置くと読み、撤退する際に地蔵堂に爆薬を仕掛けた。案の定、家康は爆薬が仕掛けられているとは知らず地蔵堂を本陣とした。そして、真田軍団猿飛佐助ら十勇士が頃合いを見計らって次々と爆薬の導火線に火を放った。すると大音響とともにお堂は木端微塵(こっぱみじん)に吹っ飛んだ。

 智将幸村の起死回生(きしかいせい)の一策であったが、家康はこの時お堂から離れた草むらで用を足していたので運よく難を逃れた。真田軍団は再び本陣に突入して家康を探したが、姿がなく逃げられてしまっていた。敵の大将家康ただ一人を追い続けた幸村の秘策は(むく)われなかった。 

 

桃太郎 鬼ヶ島遠征の場【中町第3場】

H28第3場  鬼退治で有名な桃太郎の物語は、日本各地に残っており、地方により物語の設定も様々です。この物語の原話は室町時代以前にできたといわれ、主人公のモデルは、日本で一番古い書物の「古事記(こじき)」に登場する神話上の人物で、吉備(きび)(のくに)(岡山県全域と広島県、香川県、兵庫県の一部)の平定に活躍した吉備津(きびつ)(ひこ)(のみこと)とする見方が広く知られています。

 童話や絵本、童謡により定着しているのは、「川で洗濯をしていたおばあさんが、流れてきた大きな桃を家に持ち帰り、おじいさんと割ってみると、桃の中から男の子が現れた。その子は桃太郎と名付けられ、おじいさんとおばあさんに大切に育てられた。立派に成長した桃太郎は、キビ団子を腰にぶら下げ、鬼ヶ島へ鬼の征伐(せいばつ)に向かう。道中、イヌ、サル、キジが家来となり、悪い鬼を退治した。」という話です。

 ある企業が、保護者を対象に「お子様に語り継ぎたい童話や昔話は何ですか。」というアンケートを行った結果、「一人では困難なことでも、仲間と一緒に立ち向かうことで、目的を達成できるということを物語から伝えられる。」などの理由から1位になったのは、「桃太郎」でした。

 このように桃太郎は、親からも、こどもからも親しまれ、誰でも知っている時代を超えた物語といえます。 

 

真田信繁の娘 おすへ嫁入りの場【下町・藤見町第4場】

H28第4場

 いまを(さかのぼ)ること(およ)そ400年、天下分け目の関ヶ原合戦が行われた。

 西軍として上田城で徳川秀忠軍を迎え撃った真田昌幸(まさゆき)信繁(のぶしげ)(幸村)父子は、歴史に残る大奮戦をしたが、関ヶ原では東軍の徳川方が勝利。西軍は敗戦の()き目をみた。

 信繁の長女、おすへ(阿菊(おきく))は、伯父(おじ)((ある)いは祖父とも伝えられる。)である堀田(ほった)(さく)兵衛(べい)の養女となり、石合(いしあい)十蔵(じゅうぞう)(みち)(さだ)のもとへ()すこととなった。石合十蔵は小県郡長窪の郷士(ごうし)であり、石合家は後に中山道長久保宿の本陣を務めることになる。おすへが嫁いだいきさつの詳細は不明であるが、敗軍の将となった信繁が娘の身を案じた末のことではないだろうか。

 大坂冬の陣の後、夫・十蔵が、信繁、大助(だいすけ)父子のことを案じて、信繁、大助父子とともに大坂城に(こも)る作兵衛に手紙を送り、それに対する信繁からの返書が今に伝わっている。

「此世(このよ)にて面談は有之間敷(これあるまじく)候、何事もすへこと心に不叶(かなわざる)ぎ候共、御見捨無之(おみすてこれなき)やうに頼入(たのみいり)候」

決死の覚悟で徳川方との決戦に臨んでいること、娘に対する深い(いつく)しみの心根が手にとるように伝わる文面である。その後、おすへは、末永く幸せに暮らしたと伝えられている。

 

日本一(ひのもといち)(つわもの)」真田幸村公 大坂の陣奮戦の場【桜町第5場】

H28第5場  戦国時代最後の大戦(おおいくさ)、大坂の陣で天下にその名を(とどろ)かせた伝説の戦術家がいた。永禄(えいろく)十年(1567)、信濃の小大名・真田昌幸(まさゆき)の二男として生まれた真田信繁(のぶしげ)(幸村)である。

 慶長(けいちょう)十九年(1614)冬、大坂城に(こも)った豊臣(とよとみ)方十万に対して徳川方は二十万の兵力で城を囲んだ。幸村は、最も激戦が予想される城外南東部に(とりで)を築いた。徳川諸隊の軍勢をおびき寄せる真田家伝統の戦法の最高(けっ)(さく)「真田丸」である。十二月四日、圧倒的に数で勝る徳川方はついに目の上の(こぶ)、真田丸に押し寄せる。幸村はこの機を見逃さなかった。冷静な采配で猛烈な射撃を浴びせ、徳川諸隊を散々に打ち負かしたのである。

 しかし、この大勝利を以ってしても戦局を打開することはできなかった。すでに勝利を得ることは絶望的な状況で狙うは徳川家康の首ひとつ。慶長二十年(1615)五月七日、幸村率いる真田赤備(あかぞな)え隊が家康本陣に総攻撃をかける。死を()した幸村の猛攻は徳川(はた)(もと)(しゅう)蹴散(けち)らし、一時家康に切腹を覚悟させるほどであった。

自らの信じる道を貫き通した幸村は、「真田(ひの)(もと)(いち)(つわもの)」と(たた)えられることになる。生きて栄華を手にすることはできなかったが、一つの伝説となり今も生き続けている。

 

おたや祭りの山車(だし)の位置について

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