公開日 2017年01月11日
最終更新日 2017年12月22日
おたや祭と山車の由来
長和町の古町(旧長窪古町)に所在する古町豊受大神宮の例祭は、通称おたや祭として知られています。
その起源は江戸時代末の、文政十一年(1828)の文書が、現在のところ最も古い記録として残されていますが、お祭はこれ以前よりかなり古くから行われてきたと考えられます。
古町豊受大神宮では伊勢神宮にならって、20年ごとに遷座祭が行われ、例祭は毎年1月14日の夕方から15日の昼頃まで行われます。お客のある家庭は、この日を年始にし、その歳の出発とするのを慣わしとしています。
参詣の人々は上田、佐久方面からも訪れ、この2日間に4~5万人ほどの人出が予想されます。
おたや祭には、庶民の生活が安定し余裕が出てくると、お祭を盛んにするために山車が奉納されるようになり、旧家所蔵の天保六年(1835)の日誌に記載されています、「御田(旅)屋賑わし、かざり物数ヶ所美事也」との一文が、現在判っている最も古い山車の記録です。
山車は素朴な農民美術を伝承する貴重な伝統文化として、昭和38年に長野県無形民俗文化財選択に指定され、現在は区単位の5場所の保存会によって奉納されています。
平成29年の山車
鶴の恩返し【上宿第1場】
昔々、ある所に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ある寒い冬の日、おじいさんは町へ薪を売りに出かけ、罠にかかって苦しんでいる鶴を見つけ助けてやりました。その夜、誰かがおじいさんの家の戸をたたきました。おじいさんが戸をあけると、美しい娘が、「道に迷ったので、一晩泊めてください。」と言うので、かわいそうに思ったおじいさんは娘を家の中に入れました。その晩から雪はずっと降り続き、外に出ることもできません。その間、娘はおじいさんたちの世話をし、「ひとりぼっちなので、娘にしてください。」と言いました。おじいさんたちは大喜びしました。
ある日、娘は、「機を織ってみます。でも、部屋の中を絶対にのぞかないでください。」と言って部屋にこもり、機を織りました。娘が織った布は美しく、高く売れました。その後、娘の織った布でおじいさんたちは沢山のお金が手に入るようになりました。「娘はどうしてあんな美しいものが織れるのだろう。」とおじいさんたちは約束をやぶり、部屋をのぞいてしまいました。すると、一羽の鶴が自分の羽をぬいて糸の間に織りこんでいました。驚いているおじいさんたちの前に娘が出て来て、「私はおじいさんに助けていただいた鶴です。姿を見られたからには、ここにはいられません。」と言うと、鶴の姿になって舞い上がり、山のむこうに姿を消してしまいました。
天の岩戸の場【上中町第2場】
太陽の神、天照大御神が岩戸に籠もったので、神々が長老にどうしたらよいか尋ねると、暗闇でもよく鳴くにわとりを岩戸の前に集めて鳴かせるようにいわれ、天宇受売命が進み出て岩戸の前にしつらえた舞台にのぼり、にわとりの鳴き声にあわせて舞を舞い始めた。しだいに興が乗ってくると天宇受売命は身にまとった服を脱ぎ捨てながら舞い、神々は手と膝をたたいて舞いを盛り上げた。あまりの賑やかさに岩戸のなかの天照大御神は、「何事だろう。」と隙間から表をのぞき見ると、天宇受売命はのぞいた隙を逃さずに、「あなた様より、もっと尊い神がここにつかわされましたので、みんなが喜んで騒いでいるのでございます。」と声を掛け、他のふたりの神が天照大御神の前に鏡を突き出した。鏡に映った姿が自分自身であるとは知らずに天照大御神が岩戸から身を乗り出すと、天手刀男の神がその手を取って岩戸の外へ導き、同時に別の神が後ろに回って注連縄を張り、二度と岩戸へ戻れなくして、以前のように明るい平和な日々を送れることになった。
天の岩戸のような神話は、太陽信仰のある多くの国で伝えられている。冬至の頃、太陽の光が最も衰えた時を意味するもので、春になってまた新しい生命に生れ変わるという季節の移り変わりを物語っている。
天岩戸開きの場【中町第3場】
昔、高天原という神々の世界で、天照大御神の弟神である須佐之男命が、田んぼを壊したり、御殿を汚したりと、乱暴なことをして神々を困らせていました。天照大御神は弟をかばいますが、調子に乗った須佐之男命は乱暴が止まりません。天照大御神は、度を超した乱暴に怒り、天岩戸に隠れてしまいました。
太陽の神様がお隠れになると、世の中は真っ暗闇になり、さまざまな禍がおこりました。そこで、八百万の神々が天の安川原というところに集まり、天照大御神に岩戸からお出ましいただくには、どうしたらいいだろうかと相談をしました。その結果、岩戸の前で、にぎやかにお祭りをすることになりました。
天宇受賣命が神楽を面白、おかしく舞い踊ると、長鳴鳥が鳴き出し、面白い舞を見た神々が、どっと笑い声をあげました。そのどよめきを聞いた天照大御神は、何事が起こったのかと岩戸を少し開けて外を見ようとしました。そのとき、隠れていた怪力の天手力男命が、ぐっと岩戸を押し開くとそのまま遠くへ放り投げ、天照大御神を外にお出しすることができたため、世の中は、再び明るく平和な時代に戻りました。
このとき、天手力男命が放り投げたのが「戸隠山」であるという話は、日本の神話として昔から語り伝えられています。
第一次上田合戦 神川合戦の場【下町・藤見町第4場】
武田氏が滅亡し、織田信長も横死すると、上州沼田領を巡って真田氏と徳川氏との間に衝突が起こった。
家康は真田討伐のため鳥居元忠、大久保忠世ら約七千の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。徳川軍は信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約千二百であったと言われ、昌幸は上田城に、長男・信幸は砥石城に籠城した。昌幸は、上田城に攻め寄せた徳川方を二の丸で撃退し、さらに追撃を掛けた。
砥石城の信幸も堰止めておいた神川の堤を破って、横合いから攻め込んだ。水が一気に解き放たれた神川が逃げる徳川方の将兵に洪水のように襲いかかった。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は千三百人もの戦死者を出したと言われ、一方、真田軍は四十人ほどの犠牲者であった。これが世に言う第一次上田合戦・神川合戦である。
その後も大久保忠世らの諸将は、小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退した。真田軍は十倍の敵を見事に撃退、“徳川敗北”の報は天下を巡り、“真田恐るべし”と諸大名から一目置かれる存在となった。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価も高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信幸へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。従来、昌幸の次男・信繁はこの時期、上杉氏への人質として越後・春日山城に居たとされている。しかし、最近の考察では、この戦いにおける上杉氏の真田氏への加勢に伴い、上田に帰り、ともに戦っていたとの説も浮上している。今回の場面ではこの説を取り、信繁を登場させている。
関ヶ原の戦い 井伊直政先陣を切るの場【桜町第5場】
慶長5年(1600)9月15日未明、美濃(岐阜県)関ヶ原に徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が布陣した。濃い霧が立ち込める午前8時頃、徳川四天王のひとり井伊直政は「井伊の赤備え」の先頭で自ら長槍を構えて真っ先に敵陣へと突き進む。それが合図となり天下分け目の大戦の火蓋が切って落とされた。戦いは東軍が大勝利を収め、徳川の世に大きく舵を切った。井伊家はその後江戸幕府265年を譜代大名筆頭として支えるのである。
遠江(静岡県)浜名湖の北にある井伊谷を治める有力領主井伊家は、戦国時代には今川・武田といった大大名に翻弄され、当主となる男たちは次々と命を落とし断絶寸前となる。それを乗り越えたのが「おんな城主」となった直虎である。井伊直虎こと次郎法師は許婚の遺児・虎松(後の直政)の養母として井伊家の未来を繋いだ。資源も武力も乏しい土地で、頼るべきは己の知恵と勇気。直虎は、男が決めたルールに従うのではなく、自分の判断で生き方を決め、自らの力で人生を切り開きながら国を治め、幼い世継ぎの命を守ってたくましく生き延び、その後の発展の礎を築いた。
天正10年(1582)、直虎は戦国を生き抜いた激動の生涯を閉じた。享年46歳頃と推定される。義母として家康の忠臣に育て上げた直政の関ヶ原での活躍を見守っていたことであろう。
おたや祭りの様子(黒耀の里ゆいねっと放送番組)
おたや祭りの山車(だし)の位置について
日時:14日(土)午後7時30分開始
※雨天順延
15日(日)午後7時〜
地図
おたや祭り
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