H30おたや祭り

公開日 2018年01月12日

最終更新日 2018年01月14日

おたや祭と山車の由来

H30top長和町の古町(旧長窪古町)に所在する古町豊受大神宮の例祭は、通称おたや祭として知られています。
その起源は江戸時代末の、文政十一年(1828)の文書が、現在のところ最も古い記録として残されていますが、お祭はこれ以前よりかなり古くから行われてきたと考えられます。
古町豊受大神宮では伊勢神宮にならって、20年ごとに遷座祭が行われ、例祭は毎年1月14日の夕方から15日の昼頃まで行われます。お客のある家庭は、この日を年始にし、その歳の出発とするのを慣わしとしています。
参詣の人々は上田、佐久方面からも訪れ、この2日間に4~5万人ほどの人出が予想されます。
おたや祭には、庶民の生活が安定し余裕が出てくると、お祭を盛んにするために山車が奉納されるようになり、旧家所蔵の天保六年(1835)の日誌に記載されています、「御田(旅)屋賑わし、かざり物数ヶ所美事也」との一文が、現在判っている最も古い山車の記録です。
山車は素朴な農民美術を伝承する貴重な伝統文化として、昭和38年に長野県無形民俗文化財選択に指定され、現在は区単位の5場所の保存会によって奉納されています。

 

平成30年の山車


【上宿第1場】南総里見八犬伝の場

 H3001「南総里見八犬伝」は、(じん)()(れい)()(ちゅう)(しん)(こう)(てい)の玉を持った(はっ)(けん)()が活躍する波乱万丈(はらんばんじょう)の物語である。

 今から五百数十年前(室町時代中期)のこと。その頃、里見(さとみ)義実(よしざね)安房(あわ)の国(千葉県南部)の半分を(おさ)める(りょう)(しゅ)であった。ある年、里見領が飢饉(ききん)の折に隣国の安西(あんざい)(かげ)(つら)が攻め込んできた。義実は娘(ふせ)(ひめ)の愛犬八房(やつふさ)に「景連の首を取ったら、伏姫をあたえる。」と(たわむ)れを言った。八房は本当に景連の首を取り、義実は勝利する。

 義実は八房を大切にしたが、八房は喜ばず、何かをねだる素振(そぶ)りを示す。ある日、八房が御殿の奥の伏姫のそばに飛び込んだので、義実は槍で八房を突き殺そうとした。伏姫は八房をかばって「約束は守らねばならぬゆえ、私はおまえと行こう。」と言い、不思議な老人がくれた()(だま)数珠(じゅず)を身につけた。八房は伏姫を背に乗せて、安房で最も高い富山(とやま)まで駆け入り、伏姫は八房とともに、この山中の洞窟で暮らした。

 ある日、伏姫の洞窟を目指す猟師姿の若者がいた。名を(かな)(まり)大輔(だいすけ)と言い、義実の重臣である。義実もこの日、洞窟に向かう。大輔は姫様を救い出そうと、八房を鉄砲で撃った。伏姫は「八房と共に。」と守り刀を腹に突き立てた。すると伏姫の体から光る煙が出て、首にかけた数珠を包み、仁義礼智忠信孝悌の文字が浮かんだ。その八つの玉は義実と大輔の前で、光り輝きながら八方に飛び去った。八犬士誕生の発端(ほったん)である。

 


【上中町第2場】忠臣蔵 赤穂浪士四十七士討ち入りの場

H3002 江戸時代中期、幕府高家(こうけ)筆頭(ひっとう)吉良(きら)上野介(こうずけのすけ)義央(よしなか)は、赤穂(あこう)藩主(はんしゅ)浅野(あさの)内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)に対して、物事を教える立場にありながら何も教えず、人前で怒鳴りつけて恥を()かせたり、さらに、顔を扇子で叩くなどをした。

 浅野内匠頭は、ついに堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒が切れて、元禄14年(1701)3月14日、江戸城本丸の松の廊下において、吉良上野介に刀で斬りつけ、重傷を負わせる事件を起こした。徳川五代将軍綱吉(つなよし)は、浅野内匠頭に即日切腹を言い渡すも、一方で吉良上野介に対して処分を下すことはなかった。この知らせが赤穂藩城代(じょうだい)家老の大石(おおいし)内蔵助(くらのすけ)に届くと、大石はすぐさま家臣を城に集め、話し合いの末、城を明け渡すことにした。浪士となった家臣たちは、主君の無念を晴らすため吉良上野介を討つことに決めた。

 江戸に(おもむ)いた浪士たちは、密かに吉良の様子を(うかが)い、吉良邸で茶会が執り行われるとの情報を(つか)むと、この日を(あだ)()ちの決行日として、元禄15年12月14日未明、雪の舞うなか、大石内蔵助ら旧浅野家家臣四十七士は吉良邸に討ち入った。戦いが繰り広げられるなかで、庭の橋の上では、吉良上野介にその人ありと言われた強者(つわもの)清水(しみず)(いち)(がく)と、赤穂浪士の杉野(すぎの)(じゅう)平次(へいじ)不破(ふわ)(かず)右衛門(えもん)近松(ちかまつ)(かん)(ろく)などが戦い、近松が切り込み池に落とされたその(すき)をついて、不破数右衛門が一学を討ち取った。まもなく夜が明けようとする頃、(はざま)十次郎(じゅうじろう)武林(たけばやし)(ただ)(しち)は、物置小屋に隠れていた寝間着(ねまき)姿の吉良上野介を見つけ出し、大石内蔵助をはじめ全ての浪士が集まり、吉良の額の刀傷を確認すると、首を取り主君の無念を晴らした。赤穂浪士一行は、その足で浅野内匠頭の墓所がある泉岳寺(せんがくじ)に向かい、墓前に吉良上野介の首を供え、仇討ちの報告をした。この後、赤穂浪士たちは幕府から切腹を命じられて絶命するも、武士の(かがみ)として後々まで語り継がれることとなった。

 


中町第3場巌流島の決闘の場

H3003 宮本武蔵は、天正12年(1584)の生まれで、出生地は播磨(はりま)(兵庫県)宮本村説と美作(みまさか)(岡山県)宮本村説がある。

 日本の剣道史上最も著名な剣豪の一人で、幼少のころから兵法を心がけ、13歳での決闘以来、諸国修行の末、生涯60余度の試合に不敗を誇る。()天一(てんいち)(りゅう)剣法の祖で、晩年は肥後(ひご)熊本藩の客分となり『五輪書(ごりんのしょ)』を(あらわ)した。一方、佐々木小次郎は、越前(えちぜん)(福井県)の生まれといわれ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての剣術家で、富田(とだ)(せい)(げん)門下として剣術を学び、16歳の頃一流を立て「(がん)(りゅう)」と称した。諸国を巡歴し「燕返(つばめがえ)し」の剣法を創案、のちに小倉藩(福岡県)藩主細川(ほそかわ)忠興(ただおき)に仕えた。

 この両者は、小説や舞台、映画などで広く知られている通り、巌流島(がんりゅうじま)において雌雄(しゆう)を決した。通説によると、慶長17年(1612)4月13日の試合当日、武蔵は約束の時間に遅れて島に着く。待たされた小次郎は憤然(ふんぜん)とし、刀の(さや)を投げ捨てた。それを見た武蔵は、「小次郎敗れたり、勝つ身であれば大事な(さや)をなぜ捨てる。」と言い放ち、波打ち際で(にら)み合い、間合いを図った。小次郎は三尺余の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は船の()を削った長い木剣の一撃で相手を倒した。

 この決戦の島は、山口県下関市にある関門海峡に浮かぶ無人島で正式には船島というが、小次郎の剣の流派名をとって、「巌流島(がんりゅうじま)」と呼ばれるようになった。現在この島の大半は公園として整備され、人工海浜や多目的広場が設けられている。

 


下町・藤見町第4場浦安の舞の場

H3004 去年10月の台風21号の大風による被害が町内各所に出ました。豊受大神宮の本殿は被害を免れましたが、社務所には、大きな被害が出てしまいました。そこで、社務所の再建と地域のみなさまの安らかなくらしを祈念して、「浦安の舞」の場面を奉納することに致しました。

 浦安の舞は、昭和15年に開催された「皇紀(こうき)二千六百年奉祝(ほうしゅく)会」に合わせ、全国の神社で奉祝臨時祭を行うに当たり、奉奏(ほうそう)する神楽(かぐら)(まい)を新たに作ることが立案され、当時の宮内省(くないしょう)(がく)()楽長(がくちょう)である(おのの)忠朝(ただとも)が、国風(くにぶりの)歌舞(うたまい)や全国神社に伝わる神楽舞を下地に作曲作舞した神楽舞です(楽器を演奏する人を伶人(れいじん)と言います)。

 歌詞は、“天地(あめつち)の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を”というものです。浦安の舞は、「朝(なぎ)の海のように波の立たない平穏な日々を天地の神に祈る。」という、平穏なくらしと平和を願う舞なのです。   

 みなさんとご一緒に心をこめて、浦安の舞を奉納し、平穏なくらしと平和な一年を祈願したいと思います。

 なお、当地では、地元の中学2年生の女子が巫女として舞っており、「どうしても巫女を務めたい。」という憧れの存在でもあります。正式には四人舞ですが、一人舞、二人舞で舞われることもあります。当地では、中学2年生の人数などの都合で、三人舞も行っているとのことです。舞は前半の扇舞と後半の鈴舞とで構成されています。この場面は、(すず)(ほこ)をもって舞っている後半の鈴舞の場面です。

 


桜町第5場西郷(せご)どん・西南戦争「血戦 田原坂の戦い」の場

H3005 時は幕末、200年以上安泰だった徳川幕府に(ほころ)びが見え始めた頃、西郷(さいごう)隆盛(たかもり)薩摩(さつま)国鹿児島城下にて、七人兄弟の長男として生まれた。下級武士の出身でありながら、倒幕運動の中心人物となり、日本の歴史を動かした巨人である。

 日本最後の内乱である西南戦争は、明治10年(1877)1月、西郷が鹿児島に新設した私学校の生徒の一部が暴発した事件が発端となった。西郷は挙兵を決意し、桐野(きりの)利秋(としあき)らが中心となり部隊が編成され、熊本城への進軍が開始された。西郷軍挙兵の報せを受けて政府は陸軍中将・山縣(やまがた)有朋(ありとも)、海軍中将・川村純義(すみよし)が鹿児島へ出兵し反乱の鎮圧に乗り出した。「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」と熊本民謡に歌われる田原坂にて、西郷軍と政府軍は激突する。薩摩示現(じげん)(りゅう)抜刀隊と政府軍警察抜刀隊の激しい白兵戦が繰り広げられる。降り注ぐ雨と立ち込める霧、最大兵力を投入した政府軍の攻撃の前に西郷軍は3月20日に壊滅した。西南戦争の天王山と言われ、両軍合わせて4000人以上の戦死者を出す激戦であった。

 明治維新の英傑(えいけつ)でありながら、新政府に叛旗(はんき)(ひるがえ)した男・西郷隆盛。座右の銘「敬天愛人(けいてんあいじん)」に従い、動乱の幕末・維新を駆け抜け、さまざまな謎に包まれながら、未だに絶大な人気を獲得している。

 



おたや祭りの様子(黒耀の里ゆいねっと放送番組)


おたや交通規制図

おたや祭り交通規制図[PDF:2MB]

おたや祭りの山車(だし)の位置について

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おたや祭り大花火大会も同時開催されます。

H29花火大会日時:14日(日)午後7時30分開始

※雨天順延
15日(月)午後7時〜

平成30年おたや祭り花火プログラム[PDF:11MB]

 


平成29年のおたや祭り

平成28年のおたや祭り

平成27年のおたや祭り

 

地図

おたや祭り

お問い合わせ

教育課 文化財係
TEL:0268-88-0030
町民福祉課 生活環境係
TEL:0268-75-2046

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