公開日 2019年01月08日
最終更新日 2019年01月16日
おたや祭と山車の由来
長和町の古町(旧長窪古町)に所在する古町豊受大神宮の例祭は、通称おたや祭として知られています。
その起源は江戸時代末の、文政十一年(1828)の文書が、現在のところ最も古い記録として残されていますが、お祭はこれ以前よりかなり古くから行われてきたと考えられます。
古町豊受大神宮では伊勢神宮にならって、20年ごとに遷座祭が行われ、例祭は毎年1月14日の夕方から15日の昼頃まで行われます。お客のある家庭は、この日を年始にし、その歳の出発とするのを慣わしとしています。
参詣の人々は上田、佐久方面からも訪れ、この2日間に4~5万人ほどの人出が予想されます。
おたや祭には、庶民の生活が安定し余裕が出てくると、お祭を盛んにするために山車が奉納されるようになり、旧家所蔵の天保六年(1835)の日誌に記載されています、「御田(旅)屋賑わし、かざり物数ヶ所美事也」との一文が、現在判っている最も古い山車の記録です。
山車は素朴な農民美術を伝承する貴重な伝統文化として、昭和38年に長野県無形民俗文化財選択に指定され、現在は区単位の5場所の保存会によって奉納されています。
平成31年の山車
【上宿第1場】五条大橋 牛若丸と弁慶の対決の場
これは、牛若丸が平家打倒を念じて学問と剣術に励んでいた頃のお話です。平治の乱で父の源義朝が平氏に敗れたので、七歳で牛若丸は、京都の鞍馬寺に預けられました。僧になるのを嫌った牛若丸は、夜になると山奥で剣術の稽古を続け、どんどん強くなっていきました。
その頃、弁慶という乱暴者が、都の五条の橋に現れては、通る人の刀を奪い取っていました。ある夜、「その乱暴者をこらしめてやろう。」と思った牛若丸は、笛を吹きながら、五条の橋を渡っていきました。すると、「その刀を置いていけ。」と、やはり弁慶が現れました。弁慶はさらに、「わしは千本の刀を奪い取るという願をかけ、九九九本集めた。おまえの刀で千本目だ。おとなしくよこせ。」と言いました。牛若丸は、「ほしければ、取ってみよ。」とにっこり笑いながら言いました。「生意気な。」と弁慶が薙刀で切りかかると、牛若丸はひらりと欄干の上にとび乗ります。弁慶は力いっぱい薙刀を振り回し、牛若丸は、ひらりひらりとかわします。弁慶がへとへとになったとき、牛若丸が扇を投げました。その扇は、弁慶の顔を見事に打ちました。「まいりました。」と降参した弁慶は、牛若丸の家来になりました。
牛若丸は後に源義経と名乗り、源平合戦で大活躍し、平家を滅ぼしたのです。
【上中町第2場】日本遺産認定 最古の長和町ブランド 星糞峠黒耀石鉱山採掘の場
マグマが冷却して出来た天然ガラスの黒耀石は、鋭い刃物や狩りの道具の原料として人気があり、その利用は3万年前の旧石器時代にさかのぼる。
長和町の和田峠や星糞峠の原産地直下には、黒耀石を加工し、大量の石器を全国に送り出していた工場のような旧石器時代の遺跡群が発見されている。また、星糞峠の一帯には黒耀石の原石を採掘していた縄文時代の鉱山跡も発見され、黒耀石ブランドの生産と流通を担っていた周囲の縄文集落とともに、「星降る中部高地の縄文世界」として日本遺産に認定された。この「星」とは、鉱山の発見された星糞峠の地名にあるように、キラキラ耀く黒耀石を星のカケラとして言い伝えられてきたことに由来する。
国内でも類例の少ない星糞峠の黒耀石鉱山では、平成3年から継続的に発掘調査が行われ、縄文時代の採掘活動の様子が解明されつつある。現在、発掘調査が行われている鉱山の中腹では、地下5mの深さより87万年前の噴火によって和田峠から流れてきた黒耀石を大量に含む火砕流の地層が検出され、この地層をねらって7000年前から山の斜面を切り崩すようにして採掘が繰り返されていたことがわかってきた。星糞峠から虫倉山の斜面一帯には採掘の痕跡を示すクレーター状のくぼみが階段状に連なるようにして広がっており、山の地形を改変する大規模な採掘活動が展開していたことを物語っている。
長和町では、黒耀石鉱山の世界遺産登録を目指し、調査・研究を推進している。
【中町第3場】桶狭間の戦いの場
1560(永禄3)年5月12日、今川義元は、織田信長の領地である尾張(愛知県西部)を制圧するため、大軍を率いて侵攻を開始しました。当時、戦国の大大名である今川義元は、駿河、遠江、三河の3国(今の静岡県と愛知県東部)を治めていました。一方の織田信長は、地方勢力の小大名にすぎず、この時の兵力は、義元2万5千、信長5千で、5倍もの差がありました。
今川の大軍の侵攻を受け、危機に陥った織田方は、清州城で軍議を開きましたが、籠城か出撃か結論が出ませんでした。5月19日の明け方、織田方の丸根砦と鷲津砦が攻撃を受けたとの急報を受け、飛び起きた信長は「敦盛」を舞うと、出陣の号令とともに清州城を突然出発し、熱田神宮で戦勝祈願をおこなうと戦地へ向かいました。偵察に出た梁田政綱の報せにより、今川義元が「桶狭間山」(愛知県豊明市)に本陣を構え休息を取っているという情報を得ると、信長は兵2千にて義元本隊軍5千に向け出撃しました。正午ごろから降った豪雨により、信長勢は悟られることなく今川軍本陣近くまで進むことができました。
やがて信長は、豪雨が止んだのを見計らって一気に攻撃を仕掛け、ついに織田軍の服部一忠が義元に一番槍をつけると、応戦した義元を毛利新介が打ち取りました。こうして大将を失った今川勢は統制を失い敗走しました。
この桶狭間の戦いで、信長が義元に勝利するという大番狂わせの結果、信長の名は一躍天下に知られることになりました。
【下町・藤見町第4場】皇女和宮 和田宿へ泊まるの場
幕末の1861年、十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮の婚儀は、幕府と朝廷が協力する公武合体策のための政略結婚だったとも言われている。江戸へ下向する際は、総勢2万5千人以上もの大行列が、11月6日朝、下諏訪宿を出発し和田峠を越え夕方和田宿に到着した。翌日、先頭が長久保宿本陣に到着したとき、後列は和田宿を出たばかりであったという。
和田宿は8ヶ月前に宿場の大半を焼失する火災に見舞われていたが、幕府が面子をかけて支援し街並みを復旧させていた。行列が通る際は鐘や犬猫の鳴き声など物音まで厳しく取り締まられたと伝えられている。
【桜町第5場】宝船「七福神、改元の年の新春を祝う」の場
幸福をもたらしてくれる神様「七福神」恵比寿、大黒天、毘沙門天、福禄寿、寿老人、布袋、弁財天は日本の正月に欠かせない存在です。
室町時代後半から七福神信仰が生まれてまもなく、「七福神が船に乗って訪れてくる。」と言われるようになりました。「七福神」が大きく世に広がったのは江戸時代からで、徳川家康が狩野派の画家に宝船に乗った七福神を描かせたという逸話があります。
七福神とは日本で独自に信仰されるようになった神様ですが、この中で日本出身は恵比寿様ただ一人。あとはインドや中国から招来した神様です。なぜこれだけ外国の神様が多いのか。古代の日本人にとって海のかなたは、福と富を運んで来てくれるものでした。七福神が宝船で海の果ての神々の世界から来るとする発想は、海からたどり着いたものを寄神として祀った日本人の信仰からつくられたものでしょう。
江戸時代に広まり始めた七福神信仰は、商売人や様々な人に効果があるとされ人気となり、各地で七福神をお参りする習慣が生まれました。縁起の良い神様として選ばれた七柱の神様にはそれぞれ意味する福、ご利益があります。恵比寿は正直、大黒天は有徳、毘沙門天は威光、弁財天は愛敬、布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を表し、敬愛すれば七徳が身に備わると言われています。
今年は新しい年号に替わる年です。来年の東京オリンピックにつながる新しい時代の幸福と安寧を七福神に祈願します。
おたや祭りの山車(だし)の位置について
地図
おたや祭り
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