公開日 2020年01月10日
最終更新日 2020年01月14日
おたや祭と山車の由来
長和町の古町(旧長窪古町)に所在する古町豊受大神宮の例祭は、通称おたや祭として知られています。
その起源は江戸時代末の、文政十一年(1828)の文書が、現在のところ最も古い記録として残されていますが、お祭はこれ以前よりかなり古くから行われてきたと考えられます。
古町豊受大神宮では伊勢神宮にならって、20年ごとに遷座祭が行われ、例祭は毎年1月14日の夕方から15日の昼頃まで行われます。お客のある家庭は、この日を年始にし、その歳の出発とするのを慣わしとしています。
参詣の人々は上田、佐久方面からも訪れ、この2日間に4~5万人ほどの人出が予想されます。
おたや祭には、庶民の生活が安定し余裕が出てくると、お祭を盛んにするために山車が奉納されるようになり、旧家所蔵の天保六年(1835)の日誌に記載されています、「御田(旅)屋賑わし、かざり物数ヶ所美事也」との一文が、現在判っている最も古い山車の記録です。
山車は素朴な農民美術を伝承する貴重な伝統文化として、昭和38年に長野県無形民俗文化財選択に指定され、現在は区単位の5場所の保存会によって奉納されています。
令和2年の山車
【上宿・第1場】島原の乱 対戦の場
江戸初期、九州の天草・島原地方では、領主が厳しい年貢の取り立てや激しいキリシタン弾圧を行っていました。1637年10月、これに耐えかねたキリシタンの農民たちが立ち上がり、一揆を起こしました。これが島原の乱です。一揆軍の数は3万7千人にものぼりました。その大将になったのが、キリシタンを救う神の子と言われた天草四郎という少年です。まだ十代半ばという若さでしたが、農民たちを励まし、一同の信仰心を奮い立たせました。やがて一揆軍は島原半島の原城に集結し、幕府軍と激しく戦いました。
一方、幕府は1638年、12万の大軍を送り、同年2月に総攻撃を行いました。この攻撃で四郎は討ち取られ、原城も攻め落とされました。幕府はこの乱をきっかけに、キリスト教と貿易の統制をさらに厳しくして、いわゆる鎖国を完成させました。
時は流れ、2018年7月、原城跡は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されました。潜伏キリシタンの歴史は、この島原の乱以後始まることになります。
【上中町・第2場】鼠の嫁入りの場
昔むかし、鼠の夫婦にかわいい娘が生まれました。二人は娘をかわいがり大事に育てました。
娘もやがて大きくなってお嫁にいく年頃となり、鼠の夫婦はこの世で一番偉いひとのお嫁さんにしようと考え、母さん鼠が、「それはお日様でしょう。毎日わたくしたちをポカポカと温かく照らしてくれているのですもの。」と言いました。そこで二人はお願いに行き、「お日様、お日様。」と呼ぶと、「誰だ俺を呼ぶのは。」と顔を出したので、「家の娘を貰ってほしい。」とお願いすると、お日様に、「私よりもっと偉いひとは雲さんで、私がいくら照らしても雲は私を隠してしまう。」と言われ、鼠の夫婦はびっくりしました。
雲さんの所へと山を登り、てっぺんまで行って雲さんに、「おーい、雲さん。家の娘を貰ってほしいのでお願いに伺いました。」と言うと、雲さんは、「私よりももっともっと偉いのは風さんだよ。風には飛ばされてしまうもの。」と言いました。すると風が、「壁さんはおいらがいくら吹いてもびくともしない。おいらより偉いのは壁さんだよ。」と言い、鼠の夫婦はびっくりしました。
父さん鼠と母さん鼠は町にやってきました。家が沢山あって壁がずらりと並んでいます。「おーい壁さん。」二人は声をそろえて呼びました。「この世で一番偉い壁さんにお願いがあります。どうか私たちの娘を嫁に貰ってください。」、すると壁さんは大きな声で、「ワハハ、ワハハ。」と笑い、「この世で一番偉いのは、わしではなく、わしより偉いのは鼠さんですよ。」と言われた鼠の夫婦はびっくりです。「わしがいくら強くても鼠にかじられては、たちまち穴が開いてしまう。」、「なるほどその通りだ。」、鼠の夫婦はうなずいて家に帰りました。
そして、隣町に住む素敵な若者と娘を結婚させることにしました。お父さんとお母さんで結婚を申し込みに行くと、隣町の若者は喜んで受け入れ、娘は結婚し幸せに暮らしました。
【中町・第3場】十二支のはじまりの場
昔むかしの中国のお話です。神様は動物たちに、「お正月の朝、一番から十二番までに来たものを一年交代で動物の大将にする。」とお触れを出しました。
牛は、「私は足が遅いから」と大晦日の夕方に出発。元旦の朝早く神様の前まで来ると、牛の背中にこっそり乗っていたネズミがぴょんと飛び降り神様に挨拶したので、ネズミが一番、牛が二番となりました。虎とウサギは日の出とともに駆け出し、虎が三番、ウサギは四番でしたが、虎は牛に負けたのが悔しく、それ以来牛に噛みつくようになりました。龍とヘビは同時に到着しましたが、ヘビは尊敬する龍に先を譲ったので龍が五番、ヘビは六番。馬は遅く出発しましたが足が速かったので七番。羊は暗いうちに出発したのに足が遅かったので八番。猿と犬は連れだって出発しましたが、途中先を争い過ぎて大ゲンカ。鶏が中に入ってやっと到着できたので、猿が九番、鶏が十番、犬が十一番。イノシシは本当は一番に着いたのですが、猪突猛進、通り過ぎて走り回っていたためビリになったのです。さて、動物たちがみな出発したのに、ネコは日向ぼっこして寝ていました。ネコはネズミから競争は2日と嘘を教えられていたのです。後でそれを知った猫はカンカン。それ以来ネズミを追い回すようになったのです。
お釈迦様はネズミがズルをしたことも、猿と犬が大ゲンカしたことも、全てをご覧になっていましたが、「よきかな。」と仰って、静かに微笑んでおられました。
【下町・藤見町第4場】立岩駒形岩の場
昔、九州へ防人に行った父親を尋ねて、幼い兄と妹が馬に乗ってここまでやって来たが、道を見失ってこの岩の上から馬とともに落ちてしまった。
兄は亡くなってしまったが、妹は乗っていた馬が守ってくれたのか、怪我ひとつなかった。そのときから、この岩壁に馬の形の跡がついて、「駒形岩」と呼ばれるようになった。
その後、家来を連れて防人から帰って来た父親は、この地で娘と再会して息子を弔い、村人と協力して田畑を増やして牧場をつくり、馬を飼って豊かな村へと発展させていった。
そして、不思議な駒形がのついた岩の上に駒形神社が祀られた・・。という伝承が残っている。
【桜町・第5場】麒麟がくる 明智光秀「敵は本能寺にあり」の場
天正10年(1582)6月2日の早朝、明智光秀は天下人となる目前の主君・織田信長を京の本能寺で討った。なぜ光秀が謀反したのか、「本能寺の変」は戦国時代最大の謎となっている。
天正10年5月、安土城で徳川家康を接待中の光秀に、羽柴秀吉への援軍のため中国方面への出陣の命が信長より下った。光秀は出陣の準備を整えると愛宕大権現で戦勝祈願の連歌会を行った。「ときは今 天が下しる 五月哉」の光秀の発句は、明智氏の源流である土岐氏が天下を治めるとの意志を暗に示したとされる。
6月1日夜半、丹波亀山城から1万3千の明智の大軍が粛々と京を目指した。光秀は、「上様が我が軍の検分をしたいということで、まずは京に向かう。」と軍勢を出発させていた。2日午前2時頃、京の桂川に到着した足軽たちに鉄砲の縄に火を点けさせ、いつでも戦闘を始められる支度を整え「敵は本能寺にあり。」と全軍に伝えたとされる。
午前5時過ぎ斎藤利三を先鋒に光秀軍は本能寺へ一斉攻撃を開始する。信長は小姓・森蘭丸とともに弓を取り槍を取って闘うが、安田国継の槍で傷つき、ついに自ら火を放ち奥の間で切腹するのである。
新しい価値観が芽吹き始めた戦国の世で、懸命に希望の光を追い求めた明智光秀。「古きものを守らねばひとの世の美しさは滅びてしまう。」という日本人の人生観を志した智将であったと考えることはできないだろうか。平成が終わり令和を迎え、新たな道を模索する今の時代に勇気と希望を届ける。
おたや祭りの山車(だし)の位置について
地図
おたや祭り
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