令和4年 おたや祭りの山車について

公開日 2022年01月12日

最終更新日 2022年01月15日

1月14日(金)と15日(土)の2日間、古町地区において、恒例のおたや祭りが開催されます。

なお、おたや祭りの開催にあたりましては、基本的な感染対策を行いながら実施しますので、おたや祭りにお越しの皆さまは、下記の感染対策にご協力をお願いいたします。

【令和4年おたや祭りにおける感染症対策について】


・マスクの着用・咳エチケットなどにご協力をお願いいたします。
・発熱や風邪症状など、体調不良を感じている皆さまのお祭り会場への入場はご遠慮く ださい。
・ソーシャルディスタンスを保ち、できる限り密を避けてください。
・おたや祭り会場内での飲食は原則禁止となります。出店等で購入したものについて は、その場では食べず、テイクアウトの形式をとるようお願いいたします。
・大声での会話はご遠慮ください。


おたや祭と山車の由来

おたや祭りの様子 長和町の古町(旧長窪古町)に所在する古町豊受大神宮の例祭は、通称おたや祭として知られています。
 その起源は江戸時代後期の文政11年(1828)の文書が、現在のところ最も古い記録として残されていますが、お祭はこれ以前よりかなり古くから行われてきたと考えられます。
 古町豊受大神宮では、伊勢神宮にならって20年ごとに遷座祭が行われ、例祭は毎年1月14日の夕方から15日の昼頃まで行われます。お客のある家庭は、この日を年始にして、その歳の出発とするのを慣わしとしています。また、参詣者は上田や佐久方面からも訪れ、多くの人で賑わいます。
 おたや祭には、庶民の生活が安定して余裕が出てくると、お祭を盛んにするために山車が奉納されるようになり、
 旧家所蔵の天保6年(1835)の日誌に記載されている、「御田(旅)屋賑わし、かざり物数ヶ所美事也」との一文が、現在判っている最も古い山車の記録です。
 山車は素朴な農民美術を伝承する貴重な伝統文化として、昭和38年に長野県無形民俗文化財選択に指定され、現在は区単位の5場所の保存会によって制作されています。

 

 


令和4年の山車

※山車の写真は現在準備中です。準備が整い次第順次掲載いたします。

※山車の紹介文は各地区が作成した原稿を尊重し、最小限の校正としております。


【上宿・第1場】花咲か(じい)さん 枯れ木に花を咲かせるの場

 【上宿・第1場】花咲か爺さん 枯れ木に花を咲かせるの場むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。ある日、おじいさんは山で白い子犬を見つけ、家に連れてかえって二人で大変かわいがりました。 

 ある日、その犬が「ここほれ、わんわん」といって宝物を教えます。それを見ていた隣の欲深いおじいさんが犬を借りました。ですが、出てきたものは役に立たないものばかり。欲ふかおじいさんは怒って、犬を殺してしまいます。

 それを聞いたおじいさんは犬の墓に松を植えました。その松は大木になって、おじいさんがうすにしました。うすで米をつくと宝物が出てきます。それを見ていた欲ふかじいさんがうすを借りました。ですが、出てきたものは汚いものばかり。欲ふかじいさんは怒って、うすを割り燃やしてしまいます。 

 それを聞いたおじいさんは「犬のかたみのうすだもの、せめて燃やした灰をもらおう」と、灰をもらって帰ると、奇跡が起こります。おじいさんが灰をつかんで「枯れ木に花を咲かせましょう」と、ぱっとまくと、みるみるあたりは花盛り。そこへ通りかかった殿さまが喜んで「花咲かじいよ、みごとじゃ」といって、おじいさんにたくさんのお金をごほうびとしてくれました。

 こりない欲張りじいさんは、花咲かじいさんのまねをして失敗。殿さまの家来からさんざんたたかれ、家に帰りましたとさ。

 


【上中町・第2場】一休さん 将軍をやりこめるの場

 

【上中町・第2場】一休さん 将軍をやりこめるの場 一休さんは、室町時代(1394年-1481年、88歳没)の僧侶です。父は()小松(こまつ)天皇、母は伊予局(いよのつぼね)(藤原照子)幼名は(せん)(きく)(まる)で、訳あって六歳で京都の安国寺に預けられ(しゅう)(けん)の名をもらい小僧仲間に入り修行に励みます。

 小さい頃から大変(かしこ)かった周建には数々の逸話(いつわ)がありました。これらの事が絵本や紙芝居アニメ等になっています。「このはし渡るべからず」、「皮を付けたもの入るべからず」や、この「屏風(びょうぶ)の虎退治」の場面も有名です。

 とんち小僧周建は都中の評判で、やがて将軍足利(あしかが)(よし)(みつ)の耳にも入ります。将軍はそんな賢い小僧周建に会ってみたいと思い安国寺に使いを出して「金閣寺に参れ」と命じます。和尚に連れられて来た聡明(そうめい)な八歳の周建と(しばら)く話した後に試してやろうと思いました。将軍は衝立(ついたて)に書かれた虎の絵を指さして「毎晩この虎がいたずらをして困るので暴れぬよう(しば)り付けてくれぬか」、あまりにも無茶な言いつけに居並ぶ家来衆皆驚きますが、落ち着き払った周建は「わかりました。私に縄と(たすき)を貸してください」と、用意された襷をかけ縄を持って衝立の前に立ち「将軍様その虎を追い出してください。出てきたなら私が縛って御覧(ごらん)にかけます」将軍はその“とんち”にすっかり感心しお褒めのお言葉をくだされました。

一休伝説集「一休(ばなし)」が出たのは江戸時代の初期で、一休和尚が亡くなってから百七十年もたってからです。十七歳で(そう)(じゅん)と改名し、一休さんで親しまれる「一休」の号は、二十五歳の時、師の華叟(かそう)(そう)(どん)から(さず)けられたものです。

 

 


中町・第3場弘法(こうぼう)大師(だいし) 疫病(えきびょう)撃退(げきたい)の場 - 原図 葛飾(かつしか)北斎(ほくさい)画「弘法大師修法図(しゅうほうず)」-

【中町・第3場】弘法大師疫病撃退の場

 平安時代は比較的に戦が少ないとは言え、疫病や飢饉(ききん)の多い世でもありました。()の弘法大師空海は十一面観音のお告げにより、疫病に苦しむ民衆を救う為、不眠不休の大祈禱(だいきとう)(修法)を行います。 

 後年、葛飾北斎はこの空海と疫病の対峙(たいじ)を「弘法大師修法図」と言う肉筆画として描き、やはり疫病や飢饉に苦しむ江戸時代の救世(くぜ)を願って奉納しました。

 平安の世を(むしば)む疫病は恐ろしい鬼として表現され、巨大な厄災(やくさい)を前に苦戦を強いられる大僧侶空海の信仰と堅忍(けんにん)の意志が見事に描写されています。

 疫病の瘴気(しょうき)は祈る空海にも忍び寄って来ましたが、足元から湧き出る泉が彼を守り続け、遂に二十一日目、見事疫病は調伏(ちょうぶく)(退治)されました。

 今日のコロナ禍は正に世界を蝕む大厄災であります。世界中に再び健やかな日常が戻るよう、新型コロナの一日も早い調伏を願い、北斎に(なら)ったこの題目を奉納します。

 


下町・藤見町第4場】加藤清正 虎退治の場

【下町・藤見町第4場】加藤清正 虎退治の場  加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将で、通称虎之(とらの)(すけ)と呼ばれ、豊臣秀吉の忠臣として辣腕(らつわん)を振るい、初代熊本藩主となって熊本城を築城しました。

 秀吉は織田信長の遺志を継いで朝鮮・明を征服し、やがてはヨーロッパ諸国にもその名を(とどろ)かせようと野望を持ち、朝鮮へ出兵し、加藤清正もこれに従い出陣しました。

 当時は、虎の肉を食べると長寿の妙薬になると伝えられていて、人食い虎が出没することを知った清正をはじめ多くの武将は、この虎を狩って主の秀吉に献上(けんじょう)しようと考えました。ある時に清正の軍勢は、大きな山の(ふもと)に陣営を構えていました。やがて夜になると山に住んでいる大きな虎がやって来て、軍馬に襲い掛かるとそれをくわえたまま宙を跳んで、陣営から逃げて行きました。この報告を聞いた清正は、「なんと口惜しい(悔しい)ことよ」と言って、大いに怒りました。虎はすっかり味をしめたようで、翌日には清正の小姓・上月(こうづき)()(ぜん)をも噛み殺してしまいました。

 度重なる襲撃に清正は激怒して、「かくなるうえは虎を退治してくれん」と、家臣たちに命じて山を取り囲みました。やがて、一匹の虎が茅原をかき分け茂みから飛び出すと清正目掛けて疾走して来ました。清正は大きな岩の上に登り、家臣たちに指示を出していましたが、虎の突進にもまったく慌てることがありませんでした。

 家臣の仇討ちに燃える心情をあらわに、他の家臣たちの手助けを制止して自らの力で虎を退治しようと、立ち止まった虎と対峙しました。覚悟を決めた虎が牙をむき跳びかかろうとした一瞬をつき、清正自慢の槍で喉深く貫き刺すと、さすがの大虎も絶命しました。

 見事家臣の仇討ちを成し遂げ、秀吉へ長寿の妙薬虎肉を献上することができたのです。

 


桜町・第5場】鎌倉殿の13人  那須与一(なすのよいち)「平家の扇を射る」の場

【桜町・第5場】鎌倉殿の13人 那須与一「平家の扇を射る」の場 元暦(げんりゃく)2年(1185)2月18日、源氏と平氏は屋島(やしま)(四国の高松市)で合戦に及んだ。夕暮れになったころ、一(そう)の平家の小舟が近づいて来た。美しい女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて陸に向かって手招いた。 

源義経(みなもとのよしつね)は弓の名手、那須与一を呼び寄せ「あの扇を射よ」と命じた。ここで扇を射抜くことができなければ、末代まで源氏軍の失態が語り継がれることになる。与一は自害する覚悟で馬を海に乗り入れた。舟は潮風に揺られて右に左に浮き沈み、扇は少しも静止しない。沖では平氏、陸では源氏の将兵が固唾(かたず)()んで見守る中、与一は目を閉じて「南無(なむ)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)、願わくばあの扇の真ん中を射させてくれ(たま)え」と念じる。目を見開いてみると、風は僅かに弱まっている。今こそ好機と(かぶら)()をきりきりと引き絞って放つと、矢は浦に響く長いうなりをたてながら正確に扇を射切る。扇は空高く舞い上がり、真紅をひらめかせ海に散り落ち、夕日のように輝いて白波の上に漂い浮き沈みする。その一瞬の光景の美しさに、敵味方の区別なく歓声を上げて与一を称えた。互いに殺し合う宿敵(しゅくてき)同士がこの時ばかりは同じ感情を共有していたのだ。

 コロナ禍の中にあり、人間関係も社会との繋がりも薄く表層化しやすい現在だからこそ「味方の名誉のために覚悟が宿る与一の生きざま」や、「他者の尊厳(そんげん)を大切にする武士の精神」に多くの人が魅了される。

 

 


おたや祭り開催期間中の交通規制について

 

こちらのページをご覧ください。

 

 

 

 

 

 

地図

おたや祭り

お問い合わせ

教育課 文化財係
TEL:0268-88-0030